198689のツール優勝をシャンゼリゼで見てしまったことがファンになった
理由だと思う。どんなスポーツでも、実際に見るのとテレビジョンなどで見
るのは、その迫力が全く違うが、自転車競技はその差が特に顕著である。そ
の上、レース展開が劇的であったなら、もう、忘れられないのである。

1986は、シャンゼリゼに初めてアメリカ国家が流れた記念すべき日だったけ
れど、観衆はGLと同じチームの、強豪フランス人選手の優勝を望んでいた
らしく、あまり盛り上がっていなかった。強面のフランス人選手に比べるとカ
ッコよくて若いチャンピオンなのにな、と気の毒に思ったのを思い出す。

1989の光景は一生忘れられないだろう。フランス革命二百周年という状況で、
フランス人のレーサーを逆転で破った優勝にも関わらず、観衆は物凄くGLを
称え、祝福していた。この年のツール・ド・フランス最終ステージは、ベルサイ
ユからパリへの
24.5kmの個人タイム・トライアルであったが、GLは首位と
約50秒差を、平均時速54.545kmという驚異的なスピードで逆転して総合
優勝した。二位とのタイム差は僅かに8秒。現在でも、ツール・ド・フランス
百年の歴史の中で、「最も劇的なツール」と云われている。
シャンゼリゼの石
畳をクロノバイクで激走するGLは、突風のような迫力があった。あの光景に
匹敵するものは未だに見ない。
1989年の7月、ツール・ド・フランス最終日に、シャンゼリゼにいられたとい
うことは、ロード・レースのファンとして最高に幸せなことであったと思う。

1990、宇都宮の世界選手権でサインを貰った。この世界選手権は、アジアで初
めての開催だった。ロードのスーパー・スター達が大挙して来日し、宇都宮の森
林公園には、「日本にこんなにいたのか!」というくらいのファン達が、大挙
して観戦に来ていた。この大会の記念イベントとして、ジャパン・カップという
レースが誕生し、
1996にはワールド・カップ最終戦として行われた。欧州のロー
ド・レースに匹敵するものが、毎年一回気軽に観戦できるようになったのは素晴
らしいのだが、
1990の世界選を観戦した私には、出場する選手の格と大会の規
模等が劣って、ややフラストレーションが溜まる。何より、GLがいない。
1990のGLはキャリアの絶頂期で、最もカッコ良かったと思っている。低い、
彼独特のクラウチング、ブルーミラーのオークレーMスゥイープに、風になび
く金色の髪がベスト・マッチングであったと思う。

1990年、宇都宮で開催された世界選手権でのGL。
その後も何度かお会いして、お話をする機会が有った。扉写真のGLカーボン
のサインは、
1993に宮城の七ヶ宿で行われた、彼のイベントで頂いたもの。
友人が、彼のブランドのバイク(今のブランドとは違う)の材料を開発してい
た経緯もあったりして、GL関連では色々な奇縁があり、それも彼のイメージ
が薄れていかない理由かもしれない。

1993年、七ヶ宿にて。GLはギブスをしているので恐る恐る握手を。
「そのためのギプスなんだから、大丈夫だよ。」と笑われる。
感激の瞬間であった!

トップページのバイクにサインを頂いた証拠写真。
10年以上経つが、元気に現役。
GLは、色々と周囲と揉め事も多かった人でもあるが、パイオニアの成功者と
いうものは後続の人と違って大変なのだ。周りは皆敵のようなものなのだから。
日本でも、米メジャー・リーグに初めて行った野球の野茂選手や、イタリアに渡
ったサッカーの中田選手は、後発の選手達と違い、競技以外の面で色々と闘わな
ければならなかったことと同様だと思う。彼以降にも、実績的には上回るとい
う選手が数名現れてはいるのだが、私にとってのベスト・ロード・レーサーは、
やっぱりGLである。