GLとは、アメリカ出身のロード・レーサーである、グレッグ・レモン(Greg LeMond)氏の
ことである。氏は、欧州以外の人間として初めて、ジュニア世界選手権、世界選手権、ツー
ル・ド・フランス総合の優勝を成し遂げたアメリカ人である。その実績もさることながら、トレー
ニング、機材、契約等、今現在のロード・レースのスタイルを確立した選手であり、ロード・レ
ースの世界に与えた影響は絶大であり、計り知れない。そして恐らく、90年代初頭に、我が
国でもっとも存在の知られたロード・レーサーであったろう。
 1983年に、欧州以外の人間としては初めてロード・レースの世界チャンピオンになった
レモン氏は、1984年にはツール・ド・フランスに初参加して、個人総合3位と新人賞を獲得
する。翌1985年には個人総合2位。そして1986年、遂にロード・レースの最高峰であるツ
ール・ド・フランスを制する。やはり、欧州以外の人間としては初の快挙だった。
 しかし、1987年春に、家族と行ったターキー・ハンティングで、義兄の銃の暴発を受けて、
瀕死の重傷を負ってしまう。20mの至近距離から背中に散弾を受けたが、8時間に及ぶ摘
出手術で危うく一命を取り留めた。当時、レモン氏は復帰を誓い、厳しいリハビリ・トレーニン
グを積むが、アメリカのマスコミでさえその復帰を絶望視していた。世界がレモン氏の名前を、
「ツールに初めて勝ったアメリカ人。」として歴史の中に埋めようとしていた頃、丸二年の歳月
をかけて彼は復活した。
 1989年のツール・ド・フランス、レンヌでの個人タイムトライアルで、最速タイムをマークして
首位に立つ。レモン氏が、ロード・レースの歴史の表舞台に帰還した瞬間であった。その後、
ピレネー山脈からアルプス山脈は、この年絶好調のフランス人選手、ローラン・フィニョン氏と
のシーソー・ゲームが続く。最終ステージ、ベルサイユからパリへの、24.5kmの個人タイムト
ライアルを残し、二人の差は50秒でフィニョン氏が首位に立っていた。
レモン氏は、このタイムトライアルを54.545km/hという最速タイムで制し、フィニョン氏に僅
か8秒というタイム差で、劇的な逆転優勝を飾った。
フランス革命200周年に湧くシャンゼリゼで、23日間のデッド・ヒートの末に、僅か8秒という僅
差の逆転でフランス人選手を破ったことも劇的であったが、フランスの観衆が自国の選手が敗
れたにも関わらずレモン氏を称賛し、今もってこのツールを、「100年の歴史の中で最も劇的
なツール」と評するのは、体内に40発近くの散弾を残しながらも、絶望視されていた復活を成
し遂げた彼の、二年というその復活に至るまでの年月の重さを、自転車大国であるフランスの
観衆は理解していたからだろう。
 レモン氏は、この年世界選手権も制してダブル・クラウンを達成し、翌1990年にはツール・ド
・フランス2連覇、三度目の優勝を達成する。その後成績は下降線を辿り、1992年のツアー・
デュポンの優勝が、キャリアの最後の優勝となる。急激な成績の下降線に疑問を持った彼は、
身体機能のチェックを行い、ミトコンドリア性筋肉疾患という結論を得る。この疾患は、筋肉中の
ミトコンドリア細胞が侵されて、過激な運動を行うと筋肉が酸素を蓄積できずに、その呼吸が妨
げられて異様な疲労と体力低下を招く、という通常はほぼ先天性の疾患であるが、レモン氏の
場合は、心臓に埋まった3個の散弾から流れ出す鉛の成分が、その原因として考えられる、と
いうことであった。
 1994年12月3日、レモン氏は、ロサンジェルスの著名なレストランで記者会見を行い、選手
生活からの引退を発表する。ロード・レース界を近世から現代へと導いた、偉大なる異邦人の
トリプル・ツール・チャンピオンは、今度こそその存在を、ロード・レースの歴史のページの中に
埋めていったのだった。
グレッグ・レモン氏の主な経歴

1961年6月26日、カリフォルニアのレイクウッド生まれ
1976年 全米ジュニア・チャンピオン
1978年 ジュニア世界選手権チーム・ロード・レース3位
1979年 ジュニア世界選手権個人ロード・レース優勝
1980年 オリンピック選考レース優勝
      (アメリカがモスクワ五輪をボイコットした為、オリンピックを走ることは
      無かった。)
1981年 プロ・デビュー。
      クアーズ・クラシック総合優勝。
1982年 ツール・ド・ラブニール総合優勝。
      世界選手権個人ロード・レース2位。
1983年 ドーフィネ・リベレ総合優勝。
      世界選手権個人ロード・レース優勝。
1984年 ツール・ド・フランス総合3位、新人賞。
1985年 クアーズ・クラシック総合優勝。
      ジロ・デ・イタリア総合3位
      世界選手権個人ロード・レース2位
      ツール・ド・フランス総合2位
1986年 ツール・ド・スイス総合3位
      ミラノ〜サンレモ2位
      ジロ・デ・イタリア総合4位
      ツール・ド・フランス総合優勝
1987年 ・・・・・・・
1988年 ・・・・・・・
1989年 世界選手権個人ロード・レース優勝
      ツール・ド・フランス総合優勝
1990年 世界選手権個人ロード・レース4位(日本開催)
      ツール・ド・フランス総合優勝
1991年 ツール・ド・フランス総合7位
1992年 ツアー・デュポン総合優勝
1993年 ・・・・・・・
1994年12月3日 引退